久しぶりに、立ち寄ったお店で、気になっていた香りのハンドクリームを見つけた。
「これ、好きな香りかもしれない」
手に取って試してみると、思っていたより心地いい。買えない金額でもない。
なのに、しばらく手の中でそれを眺めているうちに、
「こんなもの買って、ちゃんと使い切れるの?」
「この歳で、こういうものにときめいてどうするの?」
「母はこういう“自分のためのもの”にお金を使っていなかった」
そんな言葉が、頭に浮かんでくる。
結局、「今日はやめておこう」と店を出る。
ハンドクリームだけではありません。
一人で旅行してみたい。美容にお金を使いたい。夫と二人で出かけたい。恋愛を楽しみたい。もっと自分の身体を大切にしたい。
そう思ったときにも、「私がそんなことしていいの?」という申し訳なさが出てくる。
誰かに禁止されているわけでもないのに。
なぜ、自分が楽しむことにこんなに遠慮してしまうのでしょう。
「楽しみたい」と「申し訳ない」が同時に出てくる
女性として楽しむことに罪悪感がある人は、楽しみたい気持ちがないわけではありません。
むしろ、
「きれいになりたい」
「好きなものを買いたい」
「もっと自由に出かけたい」
「愛されることを楽しみたい」
という気持ちはあります。
ところが、それが本当に手に入りそうになると落ち着かなくなる。
欲しかった服を前にして、「本当に必要?」と考え始める。
夫から旅行へ誘われても、「そんなお金を使うなら、ほかに使った方がいい」と断る。
時間ができても、自分の楽しみより家族の用事を優先してしまう。
これは、「欲しいものがわからない」という問題だけではありません。
欲しいと思ったものを、自分が受け取ってよいのか。
そこで引っかかっていることがあります。
「自分の楽しみにお金を使うなんて」
「家族がいるのに、自分だけ楽しむなんて」
「いい歳をして、恋愛だの美容だのと言っている場合?」
そんな考えが、自分の欲求と一緒に出てくるのです。
こんな罪悪感が隠れていることがあります。
・母より幸せになってはいけない気がする
・自分だけ自由になるのが申し訳ない
・女性は家族を優先するものだと思っている
・楽しんでいる女性を見ると、どこか落ち着かない
・自分の欲しいものを優先すると、わがままな気がする
母は「女性として楽しんでいる人」に見えていただろうか
自分の女性としての生き方を考えるとき、影響を受けやすい存在の一人が母親です。
子どもは、母親から何を言われたかだけを見ているわけではありません。
母が何を買っていたか。
何を我慢していたか。
父との関係でどんな顔をしていたか。
自分の時間を持っていたか。
おしゃれや恋愛、夫婦の時間を楽しんでいたか。
何を諦めていたか。
そうした生き方も見ています。
母親がいつも家族を優先していた。
自分の服は買わず、子どものものを買っていた。
父親のため、家族のために我慢していた。
仕事と家事に追われ、自分の楽しみはいつも後回しだった。
そんな母を見て育つと、
「妻や母になった女性とは、そういうもの」
という感覚を持つことがあります。
母親から直接、
「女は我慢するものよ」
と言われていなくてもです。
むしろ母親自身は、「あなたは好きなことをしなさい」と言っていたかもしれません。
それでも娘の記憶に残っているのが、いつも自分を後回しにしている母の姿なら、「女性が自分のために楽しむ」という生き方をイメージしにくくなることがあります。
「お母さんができなかったことを、私だけやっていいの?」
母親が苦労していたことをよく知っている人ほど、母とは違う人生を手に入れると、思いがけない申し訳なさが出ることがあります。
母より自由な時間がある。
母より経済的に余裕がある。
夫から大切にされている。
好きな仕事を選べる。
きれいな服を買える。
旅行へ行ける。
自分のためにお金を使える。
頭では「よかった」と思っている。
ところが、実際にそれを楽しもうとすると、
「母はそんなことできなかったのに」
という気持ちが出てきます。
これは、必ずしも「母より幸せになってはいけない」とはっきり意識しているわけではありません。むしろ理由がよくわからないまま、「なぜかできない」「やろうとすると止まってしまう」といった感覚として出てくることも多いです。
母親のことを特別に意識していない場合でも、同じように、自分だけ母とは違う生き方をすることに申し訳なさを感じることがあります。
母はあれだけ苦労した。
母は自由になれなかった。
母は父との関係でも大変だった。
それなのに私だけが、好きな服を着て、旅行へ行って、夫から愛されて、楽しそうに暮らしていいのだろうか。
母より幸せになることが、母を置いていくことのように感じられるのです。
すると、せっかく手に入りそうなものを自分から遠ざけることがあります。
欲しいものを買わない。
誘われても断る。
うれしい出来事があっても、「たいしたことじゃない」と喜べない。
幸せになりたいと思っているのに、幸せが近づくと落ち着かなくなる。
そんな矛盾の背景に、母への申し訳なさが隠れている場合があります。
母親も、その母親から「女性の生き方」を見てきた
もう少し上の世代まで見てみると、母親自身もまた、祖母や身近な女性たちの生き方を見ながら育っています。
祖母が家族のことを優先していた。
男性や長男が優先される家庭だった。
女性が自分の希望を口にしにくかった。
結婚したら家庭を守ることが当然と考えられていた。
そうした家庭もあります。
もちろん、同じ時代を生きた女性が皆同じ人生だったわけではありません。
地域や家庭、経済状況、家族の考え方によっても違います。
大事なのは、自分の家の女性たちは、どのように生きていたのかを見ることです。
祖母が我慢する。
その姿を見て育った母も、家族を優先する。
そして、その母を見て育った娘も、
「自分の希望は後回しにするもの」
と感じる。
誰かが意図的に押しつけなくても、生き方を見て受け取った価値観が、世代を越えて続くことがあります。
母親もまた、自分より前の女性たちから受け取った「女性はこう生きるもの」という基準の中で、精いっぱい生きていたのかもしれません。
そう考えると、母親を悪者にする必要もありません。
家族の中で「女性はどう扱われていたか」
女性として楽しむことへの罪悪感は、母親の生き方だけから作られるものでもありません。
家族の中で、女性や女の子がどのように扱われていたかも影響します。
たとえば、
「男の子だったらよかったのに」と言われた。
兄や弟は遊んでいるのに、自分だけ家事を手伝うよう言われた。
「女の子なんだから」と行動を制限された。
進学や仕事について、男兄弟とは違うことを言われた。
祖父母が男の子を特別に扱っていた。
父親が女性を軽く扱うような言葉を使っていた。
そんな経験から、
「女性は支える側」
「女性の希望は後回し」
「自分が自由にすると誰かが困る」
という感覚を持つ場合があります。
もちろん、家庭のルールがあったからといって、すべてを女性差別だったと考える必要はありません。
その経験を自分がどう受け取ったのかが重要です。
「私は女だから我慢する側なんだ」
そう感じていたのなら、大人になって誰からも制限されなくなったあとも、自分で自分を制限することがあります。
女性として楽しむことは、おしゃれだけではない
「女性であることを楽しむ」と聞くと、スカートやメイク、美容を想像する人が多いかもしれません。
でも、それだけではありません。
女性として楽しむことには、いろいろな形があります。
・自分が好きな服や物を選ぶ
・恋愛や夫婦二人の時間を楽しむ
・愛されることや好意を受け取る
・自分の身体について、自分がどう感じるかを知る
・仕事や暮らし方を、自分の希望から選ぶ
・一人の時間や自由を楽しむ
・自分のセクシャリティをどう扱うか、自分で決める
恋愛をしたい人もいれば、したくない人もいます。
結婚したい人も、しない人生を望む人もいます。
妊娠や出産を望むかどうかも、その人が決めることです。
女性であることを楽しむ内容に、正解があるわけではありません。
ただ、「私はこれが好き」「これをやってみたい」という気持ちがあるのに、女性だからという理由で禁止しているなら、そこは見直すことができます。
身体やセクシャリティを楽しむことに罪悪感が出る人もいる
自分の身体を女性として意識すること。
誰かに触れたい、触れられたいと思うこと。
性的な欲求を持つこと。
パートナーとの性的な関係を楽しむこと。
こうしたことに、
「女性がそんなことを考えるのは恥ずかしい」
という抵抗が出る人もいます。
家庭の中で女性の性的な感覚が否定的に扱われていたり、女性は慎ましくあるべきだという基準が強かったりすると、自分の身体について感じること自体に罪悪感を持つ場合があります。
その結果、嫌なのか、怖いのか、本当は興味があるのか、自分でもわからなくなることがあります。
性的なことを楽しめる女性になることが重要なのではありません。
「私はどう感じているのか」
を自分で知り、望むことと望まないことを選べることが重要です。
過去の性的な被害などが関係している場合は、単に考え方を変えれば済む話ではないこともあります。その場合は、自分一人で無理に向き合おうとせず、専門的な支援を利用することも選択肢になります。
母の苦労を理解しても、同じ人生を生きる必要はない
母親が女性として幸せではなかったように見えた人ほど、
「母が幸せになるまでは、私だけ幸せになれない」
という気持ちを持つことがあります。
でも、母親の人生と娘の人生には違いがあります。
母には、母が生きた時代があります。
母自身の家庭環境があります。
夫婦関係があります。
母自身がした選択もあります。
娘が母とは違う人生を選ぶことは、母の人生を否定することと同じではありません。
母が苦労してきたことを理解することと、自分まで同じように苦労し続けることは別のことです。
むしろ、
「お母さんは、あの状況の中で生きてきたんだな」
と母の人生を母のものとして見られるようになると、
「では私は、どう生きたいのだろう」
と考えやすくなります。
母が着られなかった服を着てもいい。
母ができなかった仕事を選んでもいい。
母より夫婦関係がうまくいってもいい。
母より自由でもいい。
母の人生を否定せずに、自分は別の選択をすることができます。
「私は誰に遠慮しているのだろう」と考えてみる
自分が欲しいものを手に入れそうになったとき、なぜか申し訳なくなる。
そんなときは、自分にいくつか問いかけてみてもよいと思います。
・母は自分の人生を楽しんでいるように見えただろうか
・母は何を我慢していたように見えたか
・祖母はどのような人生を送っていたか
・家の中で男性と女性は、どのように扱われていたか
・「女の子なんだから」と言われてきたことは何か
・母より幸せになることを想像すると、どんな気持ちになるか
・女性として楽しんでいる人を見ると、どんな感情が出るか
・「私には許されない」と思っているものは何か
・それを楽しんだら、誰に申し訳ないと感じるのか
・誰にも遠慮しなくてよいとしたら、何をやってみたいか
すぐに答えを決めなくても構いません。
「私、誰に遠慮しているんだろう」
と考えてみるだけで、今まで自分の考えだと思っていたものが、実は昔から家の中にあった価値観だったと気づくことがあります。
何かを始めるより、自分に出てくる気持ちを見てみる
女性であることを楽しむために、急に服を買ったり、恋愛を始めたりする必要はありません。
形から試してみたい人は、それも一つの方法です。
以前から気になっていた服を試着してみる。
好きな香りを選ぶ。
行ってみたかった場所へ行ってみる。
夫と二人で食事へ行く。
美容に少しお金を使ってみる。
そのときに、自分が何を感じるかを見ます。
「楽しい」
と思ったなら、その感覚を認める。
「恥ずかしい」
と思ったなら、何が恥ずかしいのかを見る。
「申し訳ない」
と思ったなら、誰に何を申し訳なく感じているのか考える。
「やってみたけれど、別に好きじゃなかった」
なら、それも自分の答えです。
女性らしいことを増やすための挑戦ではありません。
今まで自分に禁止してきたものを、今の自分が改めて選び直すために試してみるのです。
女性だからではなく、「私は何が好きか」で選んでいく
母親が犠牲的に生きていた。
祖母も自由ではなかった。
家族の中で女性がいつも後回しだった。
そうした歴史や経験を理解することには意味があります。
でも、それを理解したからといって、
「では今度は、私は思い切り女性らしく生きなければ」
と新しい決まりを作る必要はありません。
スカートを履かなくてもよい。
メイクをしなくてもよい。
恋愛をしなくてもよい。
結婚、妊娠、出産を選ばない人もいます。
性的な関係を持たない生き方もあります。
一方で、
「本当はやってみたい」
「これが好き」
「うれしい」
「欲しい」
という気持ちがあるのに、
「母より幸せになってはいけない」
「私だけ楽しんではいけない」
「女性がそんなことをするものではない」
という理由で禁止しているのなら、その禁止は今も必要なのかを考えられます。
カウンセリングでは、何をすると申し訳なくなるのか。そのとき誰が思い浮かぶのか。母や祖母はどんな女性として生きていたように見えたのか。家族の中で女性はどう扱われていたのか。自分だけ自由になることや、母より幸せになることをどう感じるのか。
そうしたことを一人ひとり違う背景から見ていきます。
母親の人生を理解することと、母親と同じ人生を続けることを分けられるようになることも、大切なテーマになります。
女性として何を楽しむかは、自分で決められます。
おしゃれかもしれません。
仕事かもしれません。
恋愛かもしれません。
自分の身体やセクシャリティのことかもしれません。
一人で過ごせる自由かもしれません。
家族との時間かもしれません。
「女性ならこうする」から選ぶのではなく、
私は何が好きなのだろう。
私はどう生きたいのだろう。
そこから選べるようになる。
母や祖母ができなかったことを選んでもいいし、同じものを好きだと思ってもいい。
誰かの人生を否定するためではなく、自分の人生を自分で選ぶために。
女性だからという理由で自分に禁止してきたものを、今の自分がもう一度選び直していくこと。
女性であることを楽しむというのは、そんなところから始まるのかもしれません。



