無口な父との距離
我が父は、とても無口で、「あ」「ん」「お」の3つの言葉ぐらいしかめったに発しない人でした。 つまり、こちらの問いかけに、上記の3つの言葉というか音で、返事をするぐらいだったのです。
過去形なのは、今はもう少し話すようになっているからです。 私に子供が生まれたぐらいから、少し会話らしい会話が成立するようになりましたが、それまでは、ほとんど会話らしい会話をした記憶がありません。
当然、私は父になつくわけもなく・・・
そりゃそうでしょう。 こんな無愛想な人なわけですから、「パパーーーーーッ!!」「愛しの娘よーーーーっ!!」なんてことは皆無なわけですからね。
異性の親との距離がパートナーシップに与える影響
残念なことに、異性の親との距離というのは、将来パートナーとの距離になってしまいます。 将来私が、男性との問題を抱えるのは、ある意味必然ですなっ。 だって、男性との距離感がわからないんですからね。
これは心理学でいうところの「内在化された関係パターン」に関係しています。
人は幼少期の親との関係を無意識のうちに学習し、それを大人になっても再現しやすいのです。 特に異性の親との距離感は、将来のパートナーとの距離感に影響を与えると言われています。
甘栗セレモニーと父とのつながり
そんな父と、唯一距離が縮まるセレモニーと言うか、出来事がたまにありました。
おそらく給料日、今思えば、いつもより少々頑張った月の給料日だったのだと思いますが、その日は、父が駅から家まで徒歩で帰宅する間にある、甘栗屋さんで、甘栗を買ってきてくれるのです。
普段父と距離のある娘でしたが、幼い子供にとって、大好きな甘栗を買ってきてくれるときは、甘栗に近づく・・・いや、父に近づける日でもありました。
とは言っても『ありがとう!!甘栗だーーーーっ!!』と喜ぶ私に対して、『ん』と父が言うだけなんですけどね。 その後は、2歳違いの兄と、奪い合うように甘栗を食べていました。
でも、その日だけは、父が私を視野にいれてくれていると、感じることができる日でもあったのです。
無価値感のはじまり
おそらく私は、何か特別な事がない限り、男性は私を視野にもいれてくれないのだと思い込んだのではないかと思います。
これは、心理学でいうところの「無価値感」にあたります。
『私なんて愛される価値がない』というような感覚なのですが、甘栗を買うぐらいに、特別気分が良いときだけ愛されるとでもいいましょうか・・・
こうやって書くと、『何を大げさな』と思ってしまいますが、子供の頃というのは、こういう誤解をいーーーーーーっぱいしてしまうもののようです。
大人になった自分が、あの頃の父を見ると『なんて愛情表現が、へたっぴーな親父だろう』と、父を理解することができるのですが、子供の頃は誤解してしまうんですよね。
パートナーシップに表れる影響
異性の親、つまりは父親から愛されていないという感覚は、将来パートナーとの関係に現れてきます。
私は『愛されるためには、何かしなければ』と、パートナーに尽くし、尽くしすぎた結果、困った男ばかりを製造するという過程を辿るのでありました。
このような心理パターンは、「条件付きの愛」として学習されやすく、無意識に「何かしなければ愛されない」と考えてしまうのです。
甘栗の記憶
甘栗美味しかったなぁ~
だからかどうかわかりませんが、私は未だに甘栗が大好きです。 あの甘栗の赤い袋を見るたびに、幼い日の甘栗セレモニーを思い出すのでありました。
まとめ
幼少期の親との関係は、私たちのパートナーシップに大きな影響を与えます。
異性の親との距離感が無意識に再現され、大人になっても同じようなパターンを繰り返してしまうことがあります。
また、「愛されるためには何かしなければならない」という条件付きの愛の感覚が、無価値感を生み出し、過度な尽くし型の恋愛パターンにつながることも。
子供の頃の誤解は、大人になってから見直すことができます。 そして、親もまた、不器用ながら愛情を持っていたことを理解することで、自分自身の価値を見つめ直せるのかもしれません。
※「私が子供だった頃」シリーズとして、過去の記事に加筆修正を行い、新しい内容を追加しました。