頼まれてもいないのに、気づいたら引き受けてる人。いますよね。 いえ、これは私自身の話ではありません(たぶん)。
- 職場で会議室の予約とか、資料の印刷とか、誰も言わないから自分がやってる
- 家族の誕生日、全員分覚えてるのが自分だけ
- 旅行に行くときのしおりを、気づいたら毎回作ってる
- 「誰かやってくれたら助かるな〜」の“誰か”に、条件反射的に名乗り出てる
しかも、なんなら「私がやった方が早いし」とか「まぁ大したことないし」とか言っちゃうんですよね。そんなに暇でもないくせに。
そして、「他に誰もやらなかったらどうするの?」という、責任感のような焦燥感が胸をチクチクとつついてくる。これが不思議と、「やらない」という選択肢を消してしまうんです。
本人も気づいていない、ひっそり“補償行為”
心理学では、こういう行動の裏にある無意識の努力を「補償行為」と呼びます。
補償行為とは、「自分に足りないと思っている何かを、別の方法で埋めようとすること」。
たとえば:
- ちゃんとやれば、嫌われないはず
- 頼られれば、ここにいていい気がする
- 必要とされてるうちは、自分には価値がある
- 期待に応えていれば、失望されずに済む
一見立派に見える“頑張り”の裏に、「足りない私をなんとかしなくちゃ」という焦りや不安がある。
「私がやります!」の裏には、「そうしないと私の存在が不安定になる気がする」という恐れが潜んでいるんです。
「断れない」のは、優しさだけじゃない
「断れなくて…」というと、聞こえは“優しい人”なんですが。
でも、断ったあとの静けさの中で、ふいにやってくる自己嫌悪。
「あんなふうに言わなければよかったかな」「嫌われたかもしれないな」
——そんな考えが何度も頭をぐるぐると回り始める。
断る前より、むしろ心がザワザワして、落ち着かなくなる。
そうなるくらいなら、やった方がマシ。
そんな風に感じてしまう人も、少なくありません。
つまり、断ることが怖いんじゃなくて、「断ったあとの自分の反応」が怖いんです。
内側ではこんなことが起こっていたりします:
- 断ったときの空気が怖い(ちょっと冷たくされるだけで、存在を否定された気がする)
- 自分だけが楽をしてる気がして罪悪感(他の人は頑張ってるのに、私だけ申し訳ない)
- 誰かが困ってるのを見過ごすと、自分の存在が薄れる気がする(誰の役にも立たない私は、いても意味ないのでは…)
つまり、「やる理由」より「やらなかったときの不安」の方が強いんです。
そして、それを“責任感”とか“自分がちゃんとしないと”という言葉で自分を納得させてしまうから、ますますやめづらくなる。
「役に立たない自分」への恐怖
よく言われますよね。
「あなたがやらなくても、世界は回る」
でもね。そんなこと言われても、心の中ではこう思ってたりします:
- 「じゃあ私は何のためにここにいるの?」
- 「役に立たない私は、愛されるの?」
- 「やらない私って、ただの無能なんじゃ…」
役に立つことで居場所を確保してきた人にとって、「やらない自分」を受け入れるのは、
ちょっとしたアイデンティティ崩壊です。
“存在価値”と“役割”ががっちり結びついている人ほど、「何もしない自分」にものすごく強い不安を感じます。
対処法その1:「なぜやるのか?」を自覚する
いきなり「断ろう!」なんて言いません。それは怖くて当然。
まずは、自分が動いたときに、こう問いかけてみてください:
「今、私は“やりたい”と思ってやってる?」 「“やらなきゃ”って思い込みで動いてない?」
誰に頼まれたわけでもないのに、無意識に手を挙げてしまったとき、「それって今の私の本心?」とひと呼吸おいてみる。
気づくだけでも、少しずつ“自動反応”から抜け出せるようになります。
対処法その2:「NOが難しいなら、YESを選ぶ練習を」
断るのが怖い人にとって、「NOを言いましょう」は最難関です。
そこでおすすめしたいのが、
「YESを、自分で選んで言う練習」です。
- 心からやりたいと感じたらYES。
- 時間が合わないなら「午後ならOKです」というYES。
- 得意じゃないなら「代わりにこれをやります」というYES。
- 体調や気分が優れないなら「今日は休ませてください」というYES。
- 「私にとっては重要じゃないけど、あなたにとって大事なら協力します」というYES。
- 「全部はできないけど、これだけならやれるよ」というYES。
- 「今は無理だけど、◯日以降なら対応できるよ」というYES。
- 「今回は見送るけれど、また声をかけてくれたら嬉しい」というYES。
“言いなりのYES”じゃなくて、“意思のあるYES”を少しずつ増やしてみる。
YESにも、いろんな形がある。それに気づくことが、「NOを言うこと」への第一歩になるかもしれません。
対処法その3:「誰かがやるのを、見守ってみる」
「誰かやるかな…?」と思ったとき、まずは5秒だけ黙ってみてください。
誰も手を挙げなかったら、やってもいい。けど、誰かが動いたら、その人を信頼してみる。
最初は「イライラする」「遅い」と感じるかもしれません。
でも、“やらない自分”がそこにいられることを、まずは自分自身が認めてあげてほしいのです。
任せるって、意外と勇気がいります。けれど、それも立派な“選択”です。
最後に
“私がやらなきゃ”って思ってるあなたへ。
あなたがやらなくても、たしかに世界は回ります。だけど——
あなたが無理して回しているその世界が、 あなたに優しくなかったら、それはもう「世界」じゃなくて「戦場」です。
“やる私”も、“やらない私”も、どちらも自分。
そのどちらにも「よくやってるね」と声をかけてあげられたとき、 あなたは少しずつ、
「役に立つから」ではなく “ただいるだけで価値がある自分”に気づいていけるのかもしれません。