「かわいいは、ずるい。」 そう思っていた時期が、私にもありました。 いやむしろ、長らく戦ってきました。かわいさと。というか、“かわいい子”と。
学生時代、なぜか「怒られない人」「助けてもらえる人」「なにしても許される人」って、だいたい“かわいい系”だった気がしませんか? こっちは真面目にやってんのに、あっちは「わかんな〜い♡」で生きてる、みたいな。
そんな理不尽を何度かくらった結果、 ああ、自分にはあの“かわいさ”はないんだな、とどこかで思ってしまった人もいるかもしれません。
でも、「じゃあどうすればいいか?」と考えて、 “しっかりしてる私”“頑張ってる私”で、なんとかやっていこうとしてきた。
――心理学的には、こういうのを補償行為と呼ぶことがあります。 手に入らなかったものを埋めるために、別の強みで自分を立て直す。 そうして、“かわいさ”の代わりに「完璧さ」や「有能さ」で生き抜いてきた人も、多いのではないでしょうか。
「かわいい」は、いつから敵になったのか
小学生のとき、何をしても先生に怒られない子がいた。 高校生のとき、寝癖がついてても「かわいい〜♡」って言われてる子がいた。 社会人になってからも、「あの子なんかほっとけないんだよね」って言われてる子が、いた。
で、自分はというと―― ちゃんとしてても注意される。 気を利かせても「やりすぎ」って言われる。 むしろ「しっかりしてるから大丈夫だよね?」って荷物を増やされる。
なんか、戦ってるルールが違わない?って思う瞬間、ありませんでした?
「かわいさ=ズルい」理論ができあがった瞬間、 私たちは密かに「かわいさ」と戦う覚悟を決めていたのかもしれません。
でも、かわいさと距離を置きすぎて、もはやどう扱っていいかわからない存在になっていた。
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「かわいさ=あざとさ」って誰が決めた?
「かわいさ」と聞いて、どんなイメージが浮かびますか?
・上目づかい
・語尾がふにゃっとしてる
・手を添えて「お願い♡」って言ってる
・そしてなぜか許されてる
……みたいな、若干ズルそうな空気が漂う描写を、 無意識に想像してしまう人、けっこういるのではないでしょうか。
あざといのはイヤ。でも、“かわいがられる”のはちょっと羨ましい
これはあるあるなんですが、 「あざとく見える人」って、実はちゃんと“人からの好意”を受け取るのが上手だったりします。
- 助けてもらったら素直に喜ぶ
- うれしいことを「うれしい」と言える
- 遠慮せずに「ありがとう♡」が言える
それを横で見ていて、 「うわ〜出た〜あざといな〜」なんて心の中でツッコんでたけど、 本当はちょっと…いや結構…うらやましかった、ということもある。
できる人ほど、“かわいさ”をジャマに感じやすい理由
責任感が強くて、自分でなんでもこなしてきた人ほど、 「甘えるのはよくない」「頼るのはダメ」と思い込んでしまう傾向があります。
実はこれ、自己肯定感のあり方にも関係していて、
✔「役に立つことで価値がある」と感じている人は
✔「助けられる側」に回るのが怖くなりがち
つまり、「かわいい」と思われることが、 どこかで「無力に見られること」と直結してしまっている。
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あざとさを恐れるあまり、「かわいさ」ごと棚に上げてきたかもしれない
本当は―― 「かわいく見られる」ことにも、「かわいがられる」ことにも、 ちょっとは憧れていた。
でも、「媚びてると思われたらイヤだ」 「女を武器にしてるって思われたくない」 そんな防衛本能が働いて、かわいさに触れない選択をしてきた。
あの頃の自分に、「別に“かわいい”って罪じゃないらしいよ」と、こっそりメモでも渡したくなる。
「かわいくない私」で勝ち残ると、何が起きるのか
“かわいくなれないなら、せめてちゃんとしていよう。”
“かわいいで得できないなら、せめて仕事で勝負だ。
” そう思って生きてきた人、けっこう多いのではないでしょうか。
そうして努力を重ねて、気づけば――
- 気がつくとリーダーポジション
- 気を遣ってるつもりが「安心感あるよね」と言われ
- 気配りがクセになって「頼れる人」認定される
かわいくなくても、やたら仕事ができる人になっていた。
有能さで築いたポジションは、確かに誇らしい。でも……
でも。 ちょっとだけ、こう思う日があるんじゃないでしょうか。
「誰かに“かわいい”って、甘えてみたかったな」 「“ちゃんとしてなくても愛される”って、どういう気分なんだろう」
それ、実は“かわいさ”をどこかに置いてきたままなのかもしれません。
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かわいさを取り戻すというより、「ちょっと緩める勇気」を持ってみる
完璧じゃなくても、抜けてても、なんならちょっとポンコツでも、 それでも好かれている人、愛されてる人はたくさんいます。
「かわいくないと愛されない」わけじゃないけど、 「かわいさを許せる自分」になると、世界は少しやわらかくなる。
「かわいい」はもう、“あの子だけの特権”じゃない
かつて「かわいい」は、限られた人だけに与えられた称号だった。
- 小顔でぱっちり目のあの子
- なにしても怒られない“妹キャラ”のあの子
- とりあえず「♡」が似合う人
いわば、かわいさには「選ばれし者」感があったわけです。
でも今、かわいいの使われ方、だいぶ自由になってません?
最近の女子中高生、平気で言うんですよ。
「ねぇこのおじさん、かわいくない?(笑)」
えっ、おじさんに? そうなんです。今や「かわいい」は、年齢も性別も超えていく感情表現なんです。
- うっかりミスを笑ってごまかす上司→「かわいいw」
- 話すときにちょっと照れる彼→「まじかわいい」
- おばあちゃんの小さな手→「かわいい…!」
もうね、誰がかわいくたっていい時代になってきてる。
「かわいさ」は、持ってるかどうかじゃなく、許してるかどうか
だからこそ、「年齢的にもう無理」とか、 「私はそういうキャラじゃないし」とか、 そうやって“自分で禁止してるかわいさ”、そろそろ解除してもいいかもしれません。
今思えば、武器じゃなくて、リラックスウェアくらいの存在だったのかもしれません。
ちなみに、かわいさって「若さ」や「見た目」だけの話じゃないようです。
たとえば――
- 感謝を素直に伝えられること
- 照れずに「うれしい」と言えること
- 誰かの言葉に、まっすぐ笑えること
そんな一瞬が、「かわいいな」と映ることもある。 それってもう、性別も年齢もキャラ設定も関係ない“人間味”のひとつなのかもしれません。
もし、今の自分の中にそういう部分があるとしたら―― それ、ちゃんと使ってあげてもいいんじゃないでしょうか。
「かわいさ」は武器じゃなく、パジャマくらいの距離感で
昔、「かわいさ=武器」だと思っていた。 それで得をする人がいることも、実際に見てきた。
だからこそ、戦おうとした。 それを使わずに、堂々と立っていたかった。
でも今なら思う。 無理に着るドレスじゃなくて、気楽に着られるパジャマくらいの距離感でもよかったのかもしれない。
かわいさは、完璧さと引き換えに捨てなきゃいけないものじゃない。 がんばり続けるために封印してきたけれど、 実はそれ、無理に手放す必要なんてなかったのかもしれません。
「ちょっと気を抜いた私」も、許してあげる。 それだけで、いいのかもしれません。
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