【罪悪感と怒り】【許しと感謝】は、それぞれセット商品くらいに考えてみる

罪悪感から解放されるイメージ、心の重荷を軽くするシンボル 対人関係に活かす心理学
罪悪感による自己破壊的行動から解放され、心の自由を取り戻す方法

悪いものは隠したくなる

罪悪感という感情は、「私は悪い人間です。だから罰を受けなければなりません」と、幸せになることを、無意識のうちにブロックしたり、「私は悪い人間です。だから正しいことをして、償います」というようなことをしたりと、意識はしていなくても、私たちの言動に様々な影響を与えています。

本当に様々なことに影響しているのが、罪悪感なので、問題や悩みを解決していこうとすると、必ずと言っていいほど出てくるのです。

点数が悪いテストを、お母さんにみつからないように隠すというのも、浮気の痕跡を妻に見つからないように隠すのも、罪悪感があるからです。

私たちは「悪い」と思うもの、「怒られる」「バカにされる」「誰かを傷つける」と感じると、それを隠そうとします。
点数が悪いテストも、浮気の痕跡も、「怒られる」「バカにされる」「誰かを傷つける」のうちのどれかはわかりませんが、「悪いもの」と、心のどこかで認識したので、隠すわけです。

太っちゃった体形は隠したいと思い、白髪だって隠したいと思うのも、それが良いものとは思えていなくて、悪いものと認識しているからです。
もちろん堂々と自分の体形や白髪を、オープンにしておられる方もいらっしゃいますが、それは「悪いもの」として受け取らず、「これが私」と自分を受け入れることができているからこそできることなのです。

これで許してねという補償行為

そして、点数が悪いテストを隠した子どもは、いつもはやらないお手伝いをしたりするし、浮気の痕跡を隠した夫は、妻にプレゼントを買ってきたりなんかする。
これがいわゆる、罪悪感による補償行為というものです。

「お手伝いするから許してね」「プレゼント買うから許してね」という行為なのですが、本人は意識せずにやっているでしょうね。

補償行為というのは、やっていること自体は、良いコトなんですよね。
お手伝いだって、プレゼントだって良いコトですからね。
でも、補償行為というのは、罪悪感を償う行為ですから、やってもやっても報われない感じがするのです。
報われないけれど、やめられない。
やめちゃうと、罪悪感がムクムクと顔を出すので、やめられないわけです。

でも、ずっと補償行為として報われない行為をやり続けていると、「こんなにやっているのに!」と、いくらやっても報われない感じを、誰かのせいにしたくなってしまう。

点数が悪い補償行為として、お手伝いを始めた。
お母さんは最初ほめてくれたけれど、そのうちほめなくなってしまった。
すると、「こんなにやっているのに、私のことほめないなんて、お母さんはなってないっ!!」と、自分よりも悪い人を作りたくなってしまう。

でも、自分より悪い人として、お母さんなってない!と怒った次の瞬間、怒ってしまったと自分を責めることになる。
表面上は、悪いのは私をほめないお母さんと思っていても、心の底では、お母さんを悪者にした自分を責めているのです。

罪悪感ループにどっぷりハマってしまう

というわけで、罪悪感ループと言われたりもするのですが、罪悪感が元で、グルグルと誰かを責める気持ちや、自分を責める気持ちが回り続けてしまう。

もう何をやっても報われないけれど、そうはいっても、補償行為をやめると、「私は悪い人間だ」という罪悪感を感じることになる。
それは気分が悪いので、補償行為をするが、やってもやってもなので、自分より悪い人間を作って責めたくなる。
責めたら責めたで、人のことを責める自分は悪いやつだと「私は悪い人間だ」という振出しに戻るという感じ。

何だかどんよりした気分になってしまいますよね。

完璧を目指すと更に苦しくなる

だからと言って、「罪悪感など微塵ももたない正しい人間になろう!」と頑張ってしまうと、これまたうまくいかない。

だって、何が正しいのかというのは、私たちが暮らしている社会では、人それぞれという部分が多いですし、正しさを主張した結果、誰かとトラブルになってしまって、また罪悪感を・・・ということにもなってしまいます。

また、私たちって完璧ではないので、失敗だってしてしまうし、どうしてもできないことだってあるし、そんなつもりはなかったけれど、誰かを傷つけてしまうことだってあるわけです。

となると、ある程度の罪悪感は、あって当たり前と私は考えています。

で、これがなかなかの難しさなのですが、不出来な自分を許すというのが必要になってきます。
不出来より、出来が良いほうがいいのかもしれないですし、不出来な自分を許していたら、怠けものになってしまうと思うかもしれませんが、完璧を求めない事。

一生懸命何か努力することは、とっても大切なことだと思いますが、努力してもできないことだってあるわけですし、失敗だってしちゃうものですからね。

誰かに対して怒ってしまったり、誰かを批判してしまったりする、そんな自分も「まっ仕方ない」と受け入れ、「いつかは怒らないでいられるようになりたいな」「いつかは、批判しない自分になりたいな」と、思うくらいでいいのではないかと思う次第です。

もちろん罪悪感という感情は、その他にも様々なことを起こすわけですが、1記事で書ききれるものではありませんので、今日はここまでにさせてもらいますね。

許しもまた完璧を求めないほうがよい

ちなみに、罪悪感への特効薬は「許し」になるのですが、これもまたそう簡単にできるものでもないですし、なかなかの奥深さがあります。

許したつもりでも許していなかったり、「あの人許せない!」と思っていても、実は自分を許せていなかったり、許したのか諦めたのかよくわからなく感じたりと、なんともまぁ複雑でややこしい。

一生かけて取り組む許しもあるわけですから、今日明日でどうにかなるものでもないかもしれませんよね。

そうは言っても、可能な限り許していって、可能な限り早めに罪悪感とおさらばしたいですというせっかちさんもいらっしゃるかと思います。

許せなくても「感謝」できることくらいなら、必死で探せば出てくるかも?
というわけで、心がついていっていなくても、多少嘘くささがあったとしても、「ありがとう」と感謝の言葉を口にするというのは、せっかちさんにはおすすめです。

「誰に感謝をすれば?」と思った方は、誰でもいいのです。
関わる人、目につく人、話した人、誰でもいいので、とにかく感謝してみる。

感謝しているときって、少なくとも怒っていないわけですから、罪悪感ももたない。
罪悪感と怒りはセット商品で、許しと感謝はセット商品くらいに考えるといいのかもしれないなと、私自身は思っております。

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