努力や我慢、頑張りがあるほど手放しづらい
頑張って手に入れたものって、なかなか手放せないものです。
オープン前から並んだバーゲンで手に入れた洋服って、「どうしてこんなの買ってしまったんだろう・・・」と思っても、あの人込みで戦って勝ち取った物だと思うと、なかなか手放せない。
今の時代のやり方はそうではないと言われても、苦労して身につけたやり方は、なかなか手放せなかったりもする。
考え方だって同じで、「その考え方古いですよ」なんて言われても、「だって、そう言われたし、そう考えないと怒られちゃったもんね」と手放せない。
我慢や、頑張り、苦労があった分だけ、やっぱりしがみつきたくなってしまうものなのです。
何十年前の話しなのだと言われても
先日、我が一族が一堂に会する機会がありました。
例によって例のごとく、80歳近い叔父たちがうちの父に向って言います。
「兄貴は、昔から俺たちより夕飯は1品多かったよな!」
いったい何十年前の話しなのだ?と思うけれど、きっと子供心に長男が羨ましく、妬ましく、我慢をしていたんでしょうね。
だから、その気持ちを手放せないでいるわけですね。
今回は、叔父たちだけでなく、叔母たちからもおもしろい話を聞けました。
「私が結婚の挨拶に来た時・・・」
から始まるのですが、もちろんすかさず心の中で、「何十年前の話しやねん!」と、ツッコんでおきました。
「持参したお茶菓子を、その場でおばーさんが、皆で頂こうと言って包みをビリビリに破いて、皆に出した。あれはショックだった」
という話しを一人の叔母がしたら、もう一人も「私の時も!」と言っていた。
それが礼儀に反することなのかどうかは、私は知らないし、地方や年代によっても、違うことだろうから、何とも言えないのだけれど、叔母たちにとっては、それはショックなことだったようである。
そのショックな気持ちをいったい何十年持ち続けているのだろうか?と思った。
忘れられたら楽でいいんだけど
嫌な気持ちは、忘れてしまうにかぎると私は考えています。
そうは言っても、なかなか忘れれないのも知っているし、だから困ったりもする。
必死で頑張った、ぐっと我慢した、一生懸命努力した、悔しさを飲み込んだ、そんな度合いが強ければ強いほど、なかなかその気持ちを手放せないで苦しむし、別の考え方ややり方を採用できなかったりもする。
でも、ある程度年を重ねてきたら、頑張ったり、努力したり、我慢したりではなく、できるだけシンプルに自分の気持ちのままに生きた方がいいように思う。
だから、バーゲンで必死に手に入れた服であっても、「これ着ないよね」と思うのであれば、リサイクルショップに持って行くとか、今ならフリマアプリに出すとか、処分するとかがいいのかもしれない。
やり方や考え方だって、「そうしたいのか?」「本当にそう考えているのか?」と、今の自分に問いかけて、今の自分が思うこと、考えることを優先させた方がいいと思う。
そんな時に、「あんなに努力して見つけてたのに!」とか、「あんなに我慢して手に入れたのに!」とか、「あんなに悔しい思いをしたのに!」などの気持ちが出てきますが、今はいらないもんねソレ。
年齢に合わせた成長方法
人間の成長段階で、すごく頑張ったり、努力したり、我慢したりすることが大切な時期というのはあります。
そうやって、様々なスキルや社会性を身につけていきますから。
でも年齢を重ねてくると、今度は頑張ったり、努力したり、我慢したりするのではなく、できるだけ手放していき、委ねていく段階になってきます。
アラフィフなんてのは、そんな時代の始まりではないかと、アラフィフおばさんとしては思うのです。
それは、人生を諦めるとか、手を抜くとか、夢を持たないとかそういうことではないのです。
成長の仕方が、変わるという感じかもしれないなと思っています。
手に入れることが大切な時期ってありますが、手放していくことが大切になる時期なんですよね。
削ぎ落していく
どれくらい手に入れたものを手放していけるのか?
惜しい気もするし、悔しい気もするけれど、やり方や考え方、使わなくなった物や、表面上だけのお付き合いなんかも手放していいのかもしれません。
どんどんそぎ落としていく。
生活や考え方をどんどんシンプルにしていく。
何を手に入れたいのか?ではなく、何を手放すのか?
頑張って手に入れたけれど、今は不要な物は、物質であれ、物質的でないものであれ、手放すのがいいですね。
本当に必要なものだけ、きっと残りますから。